沿革

◆読み方と意味

 古代以来、大和の国の中に添(そう)郡(ぐん)といわれる郡があり、古代の文書には層富あるいは曽布とも記されましたが、今の奈良市、生駒市や旧生駒 郡、添上郡を含む奈良県北部に当ります。広大な郡で、人口も増加したので後に添上(そえかみ)、添下(そえしも)の両郡にわかれました。当神社のある場所 は添下郡(現在は生駒郡から奈良市に編入)にあたります。 次に県[あがた]とは、律令体制以前の、朝廷の直轄地として設置され、ここは主に皇室に木材や薪を納めていた料地のため「御」の字をつけ御県(みあが た)と言われました。大和には他に高市・葛木・十市・志貴・山辺の五つの県があり、合わせて六御県(むつのみあがた)とも呼ばれました。従って大和の国の 添郡に設置された御県に鎮座する神社という意味になります。

◆歴 史

 平安時代初期に編纂された「延喜式神名帳」という全国の神社一覧文書によりますと、この神社は、月並祭や新嘗祭(にいなめさい)に朝廷から幣帛 (へいはく=お供え物の布類)を奉られて「大社」という格式を認められた神社として記されています。従って、延喜年間(901~923AD)以前に既に存 在していたことは確実です。
鎮座の起源は奈良時 代以前のおよそ古墳時代まで遡ることができます。 その後、富雄川流域でもこの一帯は古代豪族の小野氏が治め、林業を営む杣人の里となっていました。

福神宮には、当神社を創建したと伝えられる小野福麿公がお祀りされています。
(第三十代敏達天皇の直系の末裔で、春日皇子や小野妹子の子孫にあたる、奈良時代の人です。)

◆地名の由来

 当神社に隣接する根聖院の境内には三碓(みつからうす)の地名の起源となったと言われる三連の窪みのある石が置かれていて、これが古代の唐臼の残欠と信じられています。 創建時期から中世初めまでの詳細は明らかではありませんが、昭和41年の解体修理の際に殿内から墨書が発見されて、現在の社殿が南北朝時代末期(室町時 代初期)の永徳3年(1383年)の建立であることが判明しました。また、残っていた棟札などから次のような修理が行われたことも判りました。

◆歴 史 造営、修理の記録

永徳3年(1383)11月9日造営、
永正10年(1513)9月28日修理
寛文5年(1665)2月8日 修理、以下同じ、
文政3年(1820)9月吉日
昭和41年(1966)12月31日

◆文化財指定

 なお、明治44年に古社寺保存法により特別保護建造物に、昭和四年、国宝保存法により国宝、昭和25年、文化財保護法により国の重要文化財に指定されています。
神社建築で、南北朝時代にまで遡れる建造物は全国でも珍しく、貴重なもので、これを保護する「覆い屋」が古くからあったため保存状態が良かったものと考えられます。

 建築様式は五間社流造(ごけんしゃながれづくり)と言い、柱間が五つに分かれ、屋根が一方に大きく流れ、内部も五部屋に分かれており神坐の在る部屋の上には破風が三ケ所付いています。

 五間社流造正面の中央と両脇に千鳥破風を設け、中央の間と両側の間を神座としています。 本殿は室町時代の典型的な手法を示すものとして、明治40年に文化財の指定を受けている。            建立年代は、南北朝時代の永徳3年(弘和3年、1383)であることが明らかとなっています。 昭和40年から、41年に掛けて建立より初めての解体大修理を行う。

 明治40年8月28日(内務省告示第93号) 指定当時は古社寺保存法により特別保護建造物の資格を、昭和4年国宝保存法施行に伴い国宝建造物になり、昭和25年文化財保護法が施行されて重要文化財と改称された。


本社御祭神
参拝者から見て本殿右側から見て
三柱の神々が祀られています。

建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)

武乳速之命  (たけちはやのみこと)

櫛稲田姫之命 (くしいなだひめのみこと)

下の本殿古写真は昭和四一年(1966)の
大修理後に撮影された写真です。
本殿正面図
本殿古写真(正面)
本殿古写真
現在の本殿
  ※画像処理で覆い屋を除去しています


添御県坐神社
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